SPECIAL
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2024.06.19
特集『20XX年、no-de最後の日・・・』
死んでから思うこと
お久しぶりです。
天国でも左歌藤、右髙木で座ってるんだねぇ。
変わらないもんですね。魂に染み付いてるんですね。
no-deの時はそれで面接もしたし、会議の時もそうだったし。
もう遠い懐かしい記憶ですね、あの頃のことは。
むちゃくちゃ色んなことがあったけど、よう頑張ったと思います。
no-deも最初の10年ぐらいで色々作りましたよね。
うん、5〜10年ぐらいの時が一番ターニングポイントだった気がするね。
いい人たちがどんどん定着していって、会社に夢が持てるようになってきた時期だったね。
たしかにその時が一番キラキラしてたなぁ。
ちょうどその頃に色々作りましたね。放課後デイをいくつか作って、生活介護作って、みたいな。
おかげさまで放課後デイが盛況であれよあれよという間に10店舗越えたんだよね。
それで、放課後デイを作ったら作ったで、今度はその子たちが大きくなった時の居場所も作らないとなってなってね。
頑張って生活介護、作りましたよ。
結構今まで作った事業所の中でも最初が大変やったイメージがありますよね。
いやほんとに。成人してから老いるまでずっと一緒に過ごすっていう責任感もあるし、初めてのことやから職員もオペレーションにとまどいながらも、なんとか滋賀県イチ・・・、滋賀県イチ・・・、なんだったっけ??
覚えてないですけど、滋賀県イチおもろい生活介護やったんですよ、きっと。
いろいろ事業やってみた
居宅介護から始まって、放課後デイや就労継続支援をやって、相談支援や生活介護もできて、店舗数もどんどん増えていきましたよね。
その辺は福祉事業で着々と進めていたけどさ、急に歌藤さんが饅頭屋やりたいって言うから、饅頭屋も作ったよね。
最初はタコス作るつもりだったんですけど、いつの間にか饅頭になってましたもんね。
急やったけど、饅頭屋さんやるっていうのもいざやってみるとなかなか面白くてね。 今や、no-deの饅頭も滋賀県土産には欠かせない逸品にまでなってねぇ。
そうですね、道の駅とかにも絶対置いてますもんね。
僕らが死んだ時の祭壇にも置かれてたもんねぇ。
田舎で仕事したい
あとは、民泊もやりましたね。
そうだね、ほっこりする田舎で仕事したいっていうのは常々言ってたもんねぇ。
いざやってみると虫が多いっていうのに困らされたりもして(笑)。
虫も多いし、草も多いし、メンテや環境整備が大変やったねぇ。
でも、来る人たちには「こんな環境で過ごせてリフレッシュして帰れてええな〜」って言ってもらってたからねぇ。
そうですね。動物飼ったのが良かったですよね。髙木さんも犬飼いたい猫飼いたいってなったら、じゃあ飼ったらいいんじゃない?って言って飼い始めてね。あの子たちも今何代目だろ?
民泊ショートステイはあれから流行りましたもんね、田舎の方でも。
そうだね。真似したいからノウハウ教えてほしいっていう人たちも来てね。それからちょこちょこ増えていった気もする。
保育園もつくった
たしかその辺りから福祉事業以外のことも始めたりして。 保育園作ったのもその辺でしたっけ?
そうだね。no-deの従業員も増えて、no-deで働く人のお子さんを預かる場所がちゃんと欲しくて保育園も作ったんだよねぇ。
わりと当時は世の中少子高齢化時代だったけど、no-deの従業員はみんな子沢山で、たくさん子どもたちがいる環境だったよね。
そうですね。振り返ると滋賀のこの辺の地域だったからよかったのかもしれないですね。
従業員の方も、最初は障害福祉でno-deに入ったけど「子どもの仕事もしてみたい!」って言って保育士資格取って、部署が変わった従業員もいたし、結果的によかったんじゃないかなぁ。
饅頭屋さんで雇ったあの人がまさかあの後保育士になるなんて想像もしてなかったですよね。
ちょっと僕が謝らないといけないのは、僕が個人的にやりたかった中古車販売の事業がそんなに鳴かず飛ばずで・・・(笑)。
ただ自分が好きな車を乗り回して楽しんでただけっていう・・。イケるかなぁと思ったんだけどねぇ。
ちょっと時期が違ったんでしょうね。世間ではカーシェアとかが流行り出した時期だったらからあんまり中古車の回転が起きなかったですね。
まあ、でも色んな車に乗れてから死んだので悔いはないです。
自社ビルもできた
でも成功したやつで作ってよかったと思うのは、社員食堂作って良かったんじゃないですか?
うんうん。自社ビルの中に社員食堂作ったね。毎日あったかいご飯が食べれてみんなにも喜んでもらってたし。
あの辺から僕やっと痩せ始めたんですよね。ずっと太ってたけど。やっぱり食べるもんは大事ですね。
でも、最初の頃、no-deの自社ビルが建つなんて思ってた?
いやあ、思ってなかったですねえ。
ずっと自分たちの土地とか、建物は欲しいとは思ってましたけど。そこまで行くとは思ってなかったですね。
当時、銀行から何億借りるかの話を歌藤さんは何色の髪の毛で行ったんだっけ?
当時は多分、当時有名だったヒカルみたいな色になってたと思います左右で色が分かれてるっていう。
銀行の人もだいぶ怪しんではったけど、無事にお金が借りれて自社ビルが建ちましたねぇ。
当時だいぶお金注ぎ込んで髙木さんの本を出版したのも覚えてますか?
一回本出したくてね。従業員さんには入社時に必ずその本をプレゼントするっていうのが恒例になって。
メルカリで売られてたのも見たことあるけどね(笑)。
従業員さんと一緒に歩めた人生
思い返したら色んなことやったねぇ。
いやほんとに。よく続けてこれたなあって思います。 初期からずっとついてきてくれた人もいるし。まさか、途中で入ったあの人が新しい代表になると思ってなかったですしね。
ほんとにほんとに。いやあ、意外だったよ。
従業員さんとも人生を一緒に歩めた感じがして良かったなあって振り返ると思いますね。 髙木さんの娘さんは今どこにいるんでしたっけ?
今はもうね、だいぶ歳だよ?たしか当時、建築士になりたいっていって学校出て、それなりに建築関係の仕事をやってたけど。 下の男の子二人もね、無事に育ってくれて。一瞬no-deに入りたいって言ったけど、採用で落としたけど(笑)。
あっ、なんか向こうから呼ばれてる。そろそろ転生の時間がきたみたいです。
あ、ほんとやね。閻魔様のとこには行ったの?
行きましたよ。なんかお前ら、それなりにちゃんと生きてたからって、地獄には落とさず転生させてくれるみたいです。
そっか、じゃあまた来世どっかで会えたらいいね。
そうですね。また次の「交差点」で会えたらいいですね。 ありがとうございました。
そうだねぇ。こちらこそ。ではまたー。